催眠が好きだ。
 一般に催眠のイメージというと、なんだろう?
 操られる。意識がなくなる。いいようにされた挙句、記憶もない── みたいな。


 フィクションの中では、そんな催眠をよく見かける気がする。糸で吊るした五円玉とか、スマートフォンの画面を見せたらかかるやつ。それもそれでファンタジーな催眠術として、アリ。web小説や漫画で時たま読む。

 でも、ファンタジーじゃない催眠はもっと—— 融通がきかなくて、コミュニケーションらしさがあって、ひょっとすると「夢がない」。


 「夢のある」世界と「夢のない」世界、その間にあるものを見に行ったときの話をしよう。
 REDさん、という催眠術師がいる。本物の催眠術による「催眠AV」を世に出しているおじさま。
催眠好き、特に催眠の絡んだエロが好きな人ならきっと聞いたことのある名前。

 どんな分野でも、「ふたつ以上のこと」ができる人はすごい。古文書が読めて数学ができる人は、江戸時代の算術の本の研究ができる。
 エロの素養があるだけでも、催眠術ができるだけでも、「催眠術エロ」はできない。
 そのおじさまは、両方ができるすごい人なのである。

 REDさんは催眠の講習会と並行して、催眠術ライブというのをやっていた。
 かかり役に素敵なお姉さんを呼んで、かかってもらう。
 服を脱がせたりはできないし、もちろんAVそのままとはいかない。けれど、エロチシズムという意味では、なんら遜色ないライブだ。
 リアルで、そして、夢がある。

 わたしが行った日のライブでは、かかり手はきれいなAV女優さんだった。

 ライブ告知写真の女優さんは、すらっとしていて、でも目が行ってしまうくらいにおっぱいが豊かで、落ち着いた雰囲気の大人のお姉さま。
 お名前は、小早川怜子さん。調べてみると「女王様」みたいな、男に媚びないキリッとした役柄の作品が出てくる。

 会場はマンションのリビングルームくらいの広さで、いい狭さと言うのか、落ち着く。
 三人は座れそうなソファが壁際にある。

 お客さんたちは、ソファから少し距離を取ってフローリングに座った。なんの線引きもされていないけれど、ソファの周りは「ステージ」なのだという空気が共有されていた。
 わたしは一番後ろにちょんと三角座りした。これから事が起こるにつれて、会場全体がどう変わっていくかを捉えていたかった。

 REDさんがソファの端に座ったとき、主役の怜子さんはまだ来ていなかった。
 そう、主役は催眠術師ではなく、かかり手。
 REDさんは、「少し緊張している」と笑った。怜子さんが催眠にかかるタイプなのか知らないのだと言う。
 テレビやイベントで催眠術をやる場合、たいていは事前にかかりやすい人を選別したり、選んだ相手に下準備として軽くかけたりする。ぶっつけ本番なんて、わたしがお客さんを集める立場だったらものすごく怖い。


 だけど、REDさんはやってのける。


 REDさんの呼び込みで、怜子さんが入ってきた。黒いセパレートのドレスは胸元がざっくり開いていて、薄手の布地からは肌がかすかに透けて見える。
 黒のタイツも生地は薄く、全身黒のさっぱりした装いなのに、いけない色っぽさがあった。
 怜子さんがすっと横を通って行くと、甘くいい匂いがした。


 REDさんの隣に、適度にスペースを空けて怜子さんが座る。わたしたち観客が見守る中、じわりとお二人の雑談が始まった。

 「催眠ってどういうイメージ?」という質問に、怜子さんは「懐疑的だ」、と返した。
 うん。もしかすると観客だって、半分くらいの人はそうかもしれない。

 REDさんが「元々介護職だった」と話すと、怜子さんは驚いたふうだった。催眠術師という怪しげな職業とは対極のイメージなんだろう。


 そんな会話の流れの中、REDさんは紳士的に名刺を取り出した。
 自己紹介かなと思えば、ゲームをしよう、と言う。
 差し出した名刺をパッと引っ込めるから、引っ込め切る前に親指と人差し指で捕まえてみて、とそれだけのゲーム。

「反射神経を鍛えるゲームみたいな感じで。差し出した名刺を3・2・1、ハイ!でパッと引っ込めるから、引っ込められる前にこう、人差し指と親指でつかんでみて」
「えー?できなそう...」

 自信なさげに、でも楽しそうに体勢を整える怜子さん。雑談のお陰か、表情から窺える緊張もほとんどなくなっていた。

「じゃ、3・2・1 ハイッ」

 パッと名刺を差し出し、すぐ引っ込めるREDさん。怜子さんの指先は、かなり遅れて空を摘む格好に。
 ちょっとのんびり屋なのかもしれない。密かにそう思ってしまった。
 REDさんはマイペースな怜子さんにちょっと微笑みながら、

「もう一回」

と差し出す。ぴゅっと引っ込める。また掴めない怜子さん。
また差し出す。引っ込める。怜子さんは掴めない。あー!と声を上げて笑う。悔しそうだ。
差し出す。引っ込める。掴めない。
差し出す。引っ込める。また掴めない。
その、空を摘んだ格好の怜子さんに、

「はい固まった」

  瞬間、REDさんが突然言った。
 大きい声を出すでもなく、でもちょっとだけ圧力を加えるような声音。
  穏やかに穏やかに、固まった、固まって離せない、と言葉で追い込みをかけていく。
 
 怜子さんは無反応だった。
 固まった!と声を上げるわけでも、指を離そうとチャレンジするでもなかった。
 ただただ、指先と腕の筋が少しだけ張り詰めて、かちっと固まっているようだった。
 リアクションがない代わりに、怜子さんの表情はちょっと、不思議な無表情だった。

  REDさんは、手が固まったことについてはさらっと流して、暗示を解いた。そしてそのまま、パッと名刺を怜子さんの視線の上に掲げる。

「じっと見て」

 名刺のロゴマークを示して、静かに指示する。怜子さんの目は、すうっとそこを向いた時点でもう、「入っている」目をしていた。

 劇的なリアクションはないまま、もうトランス状態だった。

 REDさんの指示で、怜子さんが深呼吸をする。
 呼吸をするごとに力が抜けていきます、と、シンプルな導入。

 怜子さんはとろとろと目をつぶった。
 テレビで見るショーのような派手さはない分、穏やかで、心地よい催眠誘導だった。
 
 首の後ろの力が抜けて、重みにつられて頭がゆるゆると下がる。REDさんが右側からアプローチしていたせいか、右肩がよく緩んで、じわり、じわりと身体がかしいだ。

 REDさんは、彼女を支えるのはソファに任せて、身体にはほとんど触れない。
 でもその分、かかる側が自由にかかっていくように見えた。自分のペースで、好きなタイミングで、深い催眠状態へ入る。

 わたしは腕時計を見た。イベント開始から、まだ8分だった。



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